私の技術者人生(大学編)

還暦になって、これからの人生に思いを巡らす時間を持つようになりました。未来は過去の延長にある訳で、技術者としての自分の歩みを振り返っています。

大学受験

進学校から国立大学を受験するも、志望校(農学系)には落ちる。私学は合格したが、学費のこともあり浪人を決断した。試験範囲を網羅できていないのが失敗の要因とわかっていたので、教科書レベルからやり直す。当時は地元に予備校は無く、都内に毎日通うのも大変なため、予備校単科コース(現国、生物、化学)通学と通信添削(Z会の英語、現国、数学)で対策することに。

農学系で生物と化学は直接関係する学科であったが、大学に入ってからは農学の中でも物理が重要であることがわかった。そのことを知っていたら理科の選択科目を変更していたかもしれない。受験科目ひとつで、その後の人生を左右することもある。

大学(教養課程)

大教室での大授業は予備校で経験済みだったが、代返やエスケープが日常茶飯事なのに驚く。勉強をしに来ているはずなのに、いったい大学はどうなっているのか?という素朴な疑問を持つ。フランス語で脱落したため、ついに自分もエスケープを始めてしまった。語学は継続が大切なのに、自ら放棄したことに悔やむ。

大学(専門課程)

農場実習で初めて栽培に触れる。果樹の剪定、野菜の定植から収穫、鉢花の手入れなど、どれもどうやったら良いのかまったくわからない。同級に農家出身、農業高校出身者がかなりおり、彼らにとっては何のことはなかったはず。逆に農業高校出身者は教養時代から英語には苦労していた。ゼミの英文輪読会も大変であったろう。3年次からナシやブドウ栽培の研究をしていた果樹研究室に入る。植物ホルモンに関する研究が盛んだったが、教授に割り当てられたのはナシのハウス栽培のテーマだった。ここで施設園芸に初めて触れた。たぶん現在につながるきっかけの一つだった。

農学原論という講義

専門課程の講義は蔬菜や果樹の栽培系と、農業気象やハウス環境制御などの物理系に大きく別れていたが、やはり受験で物理を選択しなかったことが響いた。試験でも最低限の点数しかとれず悔やまれた。そうした中で、「農学原論」という少人数のゼミ形式の講義があった。三原善秋先生という退官間際の教官で、江戸時代の農学者(安東昌益など)の教えを現代に当てはめての講義であった。他の講義とはまったく毛色の違う内容だったが、江戸時代のことをまさか専門課程で学ぶとは思わず、得をした気分であった。

コンピュータとの出会い

専門課程の実習にコンピュータの科目があった。当時は日立の大型機の端末が置かれ、大型機本体は遠く離れた本学の計算機センターにあった。パンチカード式のプログラミングがTSS端末に変わる時期であった。コンピュータ利用研究会(通称:端末研)が学部内で開催され、マニュアルを読み統計パッケージソフトの使い方を研究し、卒論や修論に使うものが多かったが、自分にはあまり役には立たなかった。別の研究室ではコンピュータを使ったハウスの環境計測や制御の研究をやっていた。同じ農学系なのにやっていることは全く違うのに愕然とした。しかし研究室のメンバーは畑の脇の小屋に寝泊まりし、徹マンをしていた。夜中から明け方の温度計測というのが名目のようだ。

appleⅡというコンピュータ

結局、そちらの研究室に出入りし、当時のNECのPC8001や、アップルコンピュータのappleⅡなどに触らせてもらう。特にappleⅡには様々なグラフィックデバイスが接続され、日立の大型機とはまったく違う環境で、これも驚いた。葉面積の計測、表計算でのデータ集計、basicのプログラミング、ペンプロッターでのグラフ作成など、ナシのハウス栽培試験の卒論もこちらの研究室で作業を進めた。この研究室が農学原論の講義をされた三原善秋先生が創設された園芸環境工学研究室であった。栽培系ではない、純粋な工学系の研究室で自分とは縁のない分野と思っていたが、二人の教官との縁があった。

大学院進学

まわりが就職活動に熱心な時期に、自分はコンピュータで遊んでいた。結局、その研究室の助教授(古在豊樹先生、後の千葉大学長)に声を掛けられ、大学院に進学した。面接試験で隣の研究室の助教授(伊東正先生、後の千葉大副学長)にはコテンパンに質問責めにあったが、あとになって高校の大先輩ということがわかった。この二人の先生には社会人になってからも縁が続いた。

大学院で所属した研究室の35周年記念マグカップ

 

修士論文

修士論文は、果樹研究室との関係で、ブドウの剪定方法をCAI(Computer Aided Instruction:コンピュータ支援学習)で行うプログラミングであった。当時の最新機器であったPC9801シリーズのグラフィック機能をフルに使い、ブドウの成長や剪定後の様子などを何パターンか用意してシミュレーションするものであった。プログラミングそのものは没頭すれば難しいものではなかった。アルゴリズムも実際に剪定を実習でしていたのでイメージはできた。しかしプログラミングについて修士論文にすることは、また別の難しさがあった。研究室の先輩や後輩には、同様に様々なアプリケーションを開発し論文化していた学生も多く、参考にさせてもらった。

研究室特有の人材

しかしとんでもない後輩もいて、卒論でハウスの環境制御用コンピュータを基盤レベルから自作し、修論では植物の病害診断などに用いるエキスパートシステムを、これも言語レベルから開発した星岳彦さん(後の東海大学開発工学部教授、現近畿大学生物理工学部教授)だ。星先生には社会人になってからも折をみて最新技術などのレクチャーを受ける機会を得た。また研究室の先輩には、すでに農業関係や施設園芸業界で活躍されている先輩も多く、温室メーカー、国研究機関、大学などで活動をされていた。農林省の農業環境技術研究所や東北農業試験場で温室環境分野で活躍された岡田益巳博士、農業工学研究所で同じく温室環境分野で活躍された佐瀬勘紀博士が数年先輩におられた。今も大変お世話になっている東海大学名誉教授の林真紀夫博士も大先輩である。

東京大学との交流

研究室は、東大で同様な研究を行う研究室との交流があり、定期的にソフトボールの試合なども行っていた。東大の同学年の後藤英司さん(後の千葉大同研究室の教授)や、一学年上の本條毅さん(後の千葉大学の緑化環境システム研究室の教授)、数年上に仁科広重さん(現愛媛大学副学長)とも良く一緒に楽しんだ。また東大の教授であった高倉直先生(後の福岡国際大学長)には長くお付き合いいただき、最近は沖縄県農業研究センターに赴任されてからも、沖縄の施設園芸をご紹介いただいている。

研究室と現在の自分

こうした学生時代の付き合いが今になっても続いており、自分の技術者の業務の折り折りで教えを請い、またご一緒に研究開発を行うことが度々あった。果樹とコンピュータという異分野の融合の経験も貴重だったが、こうした方々とのお付き合いが今の自分を形成してきたと振り返るものだ。

ひとり大事な方を忘れていた。端末研の先輩で隣の蔬菜園芸学研究室の修士学生だった狩野敦さん(後の静岡大学農学部助教授、現ダブルエム(株)代表取締役社長)だ。この方は独自のアルゴリズムで、トマトの光合成の最適条件を自動で作りだす制御装置を開発され、現在販売中である。その他にも大学や研修の講義、執筆活動などで活躍されており、自分もいろいろとお世話になっている。 (つづく)