板木利隆先生を偲ぶ会

去る10月2日に逝去された板木技術士事務所所長の板木利隆先生を偲ぶ会が開催され、129名の参加があり、偲ぶ会としては大変賑やかな会でした。今年の2月に開催されたご著書「九十歳野菜技術士の軌跡と残照」出版記念パーティーでは元気なお姿を伺い、またまだまだ現役を続けられる気概も伺えたのですが、九月になり体調を崩されてからの出来事でした。ご家族は香典弔電や花輪を辞退され、参加者の故人を偲ぶ気持ちと参加者同士の交歓にも気を遣っていただき、まるでご本人がいるかのような会であったと思います。

板木先生を通じた各界との交流

出版記念パーティーと同様に、板木先生が関係された各分野である神奈川県、全農、千葉大学、日本野菜育苗協会、全国野菜園芸技術研究会、そして新たに新聞社・出版社からの参加がありました。園芸育種植物研究所理事長の伊東正先生が代表発起人として各分野に呼びかけられ、またご家族とも相談をされ企画された会でしたが、深くゆかりのある方々の参加となって、故人を通じた参加者同士の交流も改めて認識させられたと思います。

私自身も板木先生を通じて育苗業界の方々とのつながりを持つことができました。育苗の技術開発を行っていた当時、その出口として接ぎ木苗を専門に生産する苗生産業の企業を紹介いただいて、技術の改良や実証の段階に進むことができ、今でもそのつながりは続いています。また育苗業界は野菜生産者やJA、種苗業界を顧客としているため、さらにそれらの方々とのつながりへと広がってきました。そして板木先生と私の母校である千葉大学の関係者はそうした業界にも数多くおり、板木先生を要とした関係は野菜生産業界に脈々と広がってきました。

創森社の相場社長のお話し

そうした業界とは別に、出版関係の方々が会には参加されていました。家の光協会、日本農民新聞社など板木先生の著書の出版元の方々で、特に2月に出版された「九十歳野菜技術士の軌跡と残照」の出版をされた創森社の相場博也社長が参加されました。板木先生のその時々の交流録の形で記された同書には、後輩の技術士として私を1ページ程度紹介していただいており、そのことを相場社長にお伝えしました。相場社長は「1ページも書かれていれば多い方だ」とおっしゃり、3年間という長い期間にわたり同書の編集を板木先生と相談しながら進め、出版にこぎつけたお話をしていただきました。

農業関連の書籍を中心に、決して数多くは出ない本であっても外部のプロダクションなど使わず、自らが編集に携われ丁寧な仕事をされるというお考えも伺いました。同書には多くの個人の氏名や関係先のことが書かれ、ひとつひとつ掘り起こしをされて執筆されたものと想像されます。原稿の確認作業だけでも相当な労力であったと思いますが、執筆者と編集者の非常に長丁場での共同作業がなければ世の中には出ることはなかったでしょう。

私も共著での専門書の執筆を、ある出版社を通じ進めているところです。そこでは編集の責任者の方とのやりとりで、読者イメージを固めながら企画を詰め、構成を決めた上で執筆に取りかかっています。このブログのように個人が自由に書くものではなく、売ることを前提に読者に響く内容、役に立つ内容は何かを議論し、それを実現するための材料集めや原稿への落とし込み方を考え、ようやく執筆に至るものです。編集者の役割は単なる原稿の整理役ではなく、執筆者の道しるべであり、相談相手でもあり、厳しい指南役でもあると思います。おそらく板木先生は生涯で40冊弱の著書の執筆で様々な編集者の方と関わってこられたと思います。その一端を相場社長のお話で垣間見ることができました。

最後のサプライズ

会の終わりにご家族より、お礼の品が配られました。手提げ袋の中にはお菓子と1冊の書籍があり、そのタイトルは「野菜づくりの知恵袋」で、著者は板木先生、発行所は同じく創森社、発行者は相場社長でした。本年6月に板木先生より相場社長に連絡し、月刊誌に20数年も連載されたコラムをとりまとめ、補筆も行い出版に至ったことが、奥様の成子様よりあとがきに代えての章に記されていました。編集の途中で板木先生が体調を崩されたものの、20年余年も連載し愛着もあって記録の意味からもぜひまとめたいとのご本人の意向から出版にこぎ着けたとのことです。発行日は12月10日、ご逝去の2ヶ月後になります。

また記憶に残り、サプライズともなる最後の著書をいただきました。板木先生、奥様、相場社長、大変ありがとうございました。